来年の世界経済の動向を考える上で、注目するべきは、やはり中国であると考えている。近年の急成長は、ある意味で歴史の必然と言えるもので、十分な土地と、人口をもった中国に、世界の工場としての順番が回ってきたことが要因である。
しかし、広州・深センのような第二次産業の集積地帯における工員の給与は、すでに3,000元/月を越えるレベルにまで上昇しており、その役割は、東南アジア諸国へとバトンタッチする時がきている。

途上国から中進国になることは簡単なことだ。安価な労働力、それだけで達成できる。だが、中進国から先進国になることは非常に難しく、それを明確に実現した国は日本しかないと言われている。
中国の識者たちは、日本の高度成長期になぞらえて、「この現象は当時の日本のこれにあたる」とパターン認識をすることで、次に起こる現象を予想しようとしている。だが、これはまったく、的外れなアプローチである。
何故なら、ベースとなる「技術レベル」や「国民性」、「政治体制」などの条件が、根本から異なるためだ。つまり、日本は比較対象とはならないということである。
戦後の日本が「何もなかった」のは、見た目のハードウェアの部分だけであって、「技術レベル」や、教育レベルなどの、目に見えないソフトウェアの部分では、日本は当時から先進国であった。
張りぼてだらけの軍国主義でも、国産の軍艦と戦闘機で欧米列強に抗うだけの技術力を蓄積しており、鉱工業や、化学、通信などの第二次産業の基礎が、もともと競争力を持っていたのである。
一方で、現在の中国は、国内トップ企業から中小企業まで、基礎研究をまったくと言ってよいほど行っていない。大手製薬メーカーでさえ、先進国の後発品に一部の成分を加えただけの薬を「新薬」として認可を得ているほどである。
もしそのようなことが事実であるとしたら、日本人は、恥ずかしくて人には言えない。一方で、中国人はそのようにして得た富を、誇りに思っている。ここに、「国民性」の大きな隔たりがある。オリジナルとレプリカ、恥と誇りの基準が異なるのである。
「政治体制」の違いも大きい。中国は共産党が政治と経済の最終責任者であり、民主主義のように、政治家がどうあれ、その責任が最終的に国民に帰結する国家とは、まったく運営方法が異なる。
経済においても同じことが言える。中国の一部の地域では、不良債権を抱えた金融機関を地方政府がピンポイントで買収することで、資産バブルの崩壊を未然に防いでいる。
つまり、中国では党が政治だけでなく、経済のルールメーカーも兼ねている。すべての先進国が採用している、自由競争と市場原理が経済のルールである資本主義とは、この点に関しても異なる。
世界の工場としての役割が終わろうとしている今、中国は第三次産業を育て、国全体の効率性を高めなければならないフェーズに突入している。
上述のように、個人的にはそのために必要なパーツが整っていないと感じているが、党の裁量余地が大きいだけに、意外にソフトランディングさせて、付加価値の高い経済への移行を達成するかもしれない。
何れにしても、来年の世界経済は、中国が波乱なく成長率のダウンを実現させ、先進国へと変貌を遂げる道筋を示せるかどうかが、極めて重要になってくると考えている。
BLOGOSで読む